狂気
変事への序章
さわやかな風が体を擦り抜けていく。こんな風に誰もいない道を歩いて風を受けていると、心が何処かに飛ばされそうになる。ふわふわと風に乗り、何処までも高く上っていけそうな気がする。 春の、風は、そんな危うい幻想をもたらす。春になると変人が出る、とはよく言ったものだ。こんな気分にさせられては、気が変になってもおかしくない。 マントを遊ばせたまま、ただひたすらに歩いて行く。 辺りは静かだった。普段ならあたしも夢の中か、あるいは盗賊イジメに出かけている時間だ。人っ子一人いない、町の大通りを抜ける。やがて町を出て、昼間に通って来た丘へと足を向けた。 空には星が輝いている。ぽっかりと浮かんだ月が大地を照らし、夜だというのに暗さを感じない。 あたしは零れ落ちてきそうな星空を見上げ、立ち止まった。視線を足元に下ろし、俯く。風がさらさらと髪をさらい、あたしの顔を覆い隠した。 目を閉じて待ってみるが――――、何の反応もない。ふっと軽く息を吐いた。顔を上げて、空に浮ぶ中途半端な月を何とは無しに眺める。不完全な形の月。歪んだ心の形を表わしているかのような……。 「……なんの用なの? 尾けてくるんだから、あたしに用事があるんでしょ?」 こちらから行動を起こさなければ、永遠に出て来ないつもりだったのだろうか。 一拍の間の後。 「流石はリナさん、気づいてましたか」 声と共に目の前に現れた黒い神官――――ゼロス。視線をゆっくりと彼に合わせる。 「なんの用?」 取り合わずに相手を睨み据える。 冗談を言い合う為に来た訳でもないだろう。それにあたしは、忘れていない。彼との去り際の会話を。 『今度会う時は敵同士』 『命の取り合い』 これで相手を警戒せずに笑って再会を喜べと言う方が間違っている。 「ただあなたに会いたかっただけですよ」 「あたしがその言葉を素直に信じるとでも思ってるの」 「信じる信じないはあなたの勝手ですよ。僕は嘘は言いませんから」 ――――そう。嘘は、言わない。 同様に、本音も言わない。口にするのは建前ばかりだ。言葉を巧みに操り、わざと誤解させやすい言葉を選ぶ。そして平然と「僕は嘘は言ってませんよ」と言うのだ。 見え透いた手口。わざわざ乗ってやる義理などない。 「なら用事は果たしたでしょ?」 あたしは言外にさっさと帰れと言って、踵を返した。宿に戻るのだ。ただでさえ少ない睡眠時間を、これ以上減らされたくない。 わざわざ外に出てきたのは盗賊いじめをする為……ではない。いや、当初の予定では――宿を抜け出した時は――盗賊いじめをする筈だった。予定を変えた理由は、ゼロスの存在に気付いたからだ。 「つれないですねえ」 「魔族と馴れ合うつもりなんてないわ」 利用されるのがオチだ。 「ずいぶんと機嫌が悪いようですが……ガウリイさんとケンカでもしたんですか?」 後ろからついて来る声に振り向かないで答える。 「ケンカしてたとしても、あなたはには関係のない話よ」 「――――本当に、そう思います?」 あたしは思わず歩みを止めた。勢い良く後ろを振り返る。背後には、いつものにこにこ笑いを浮かべている男が立っている。 立ち止まった理由は自分でも説明できなかった。あえてこじつけるならば、ゼロスの声があまりに冥さを帯びていたからだ。無明の闇をそのまま声で表現したような、あるいは声そのものが混沌のような。 「……もう一度聞くわ。なんの為にあたしの前に現れたの」 「あなたに会いたかったからだ、と先ほど申し上げましたが?」 ゼロスはあたしに即答した。 「この答えでは不服がありますか?」 「――――。質問を変えるわ。どうしてあたしたちを一日中監視してたの」 食事をしている時も、街道を歩いている時も。常にまとわりつくような視線を感じていた。 後ろを振り向いても誰もいなかったり、周りに自分たちを見ていそうな者を見つけられなかったり、とイライラしていたのだが――。 視線の主がゼロスならば、説明はつく。 ゼロスは笑みを絶やさない。ただ――――その笑みが幾分か、闇の色を増したように見えた。 「リナさん、春って怖いと思いませんか?」 唐突な話題に顔をしかめる。いきなり何を言い出すのだ。この魔族は。 「春は再生と創生を司る季節です。冬の厳しさを越えた喜びの満ち溢れる季節です」 ゼロスはなんの反応も返さないあたしを気にした素振りすら見せない。淡々と話を続ける。あたしの問いを全く無視した形で。 「だからこそ、人間の心には隙が生まれる。春に狂気が蔓延する理由ですよ」 「何が言いたいの」 ゼロスは口を閉じた。首を傾げ、じっとあたしを見つめて。まるで「わかりませんか?」とあたしに尋ねているかのように。 進展しない状況にイライラし始める頃だった。彼が口を開いたのは。 「……警告、ですよ」 「警告……?」 おうむ返しに尋ねた。 ゼロスは聞こえていないかのように突っ立っている。 「闇を照らそうと思っても、光が強ければ強いほど、闇も大きさや濃さを増していきます。所詮、光は闇を照らすことなどできやしないんです。光にできるのは、闇を濃くし新たな影を生み出すことのみ」 要領を得ない言葉の羅列。ゼロスは何が言いたくて闇だの光だのと言い出したのだ。 「リナさん。あなたはガウリイさんの内に潜む闇の深さを知らない。あなたが思うほど、彼の中の闇は浅くも明るくもないんですよ――――」 ガウリイの内に潜む闇? 「どういう意味よ」 「言葉そのままの意味です。……気をつけないと、彼にとっての光であるあなたも、彼の闇に喰われるか、引きずり込まれるかしますよ。油断なさらないことです」 にっこりと微笑む神官に、何故か言葉を飲み込んだ。飲み込まざるを得なかった。 彼が浮かべているのはいつもの笑みだ。温かみの欠片もない笑みだ。背筋が寒くなった。凍りついたように彼を見上げ、身動きどころか瞬きすらままならない。魔性とも呼べるその笑みに魅せられたのかもしれない。気圧されたのかもしれない。 「警告は、しましたよ」 では僕はこれで――続いた言葉は風に溶け込み、耳ではなく頭の中に響いた。 我に返ればゼロスの姿は既になかった。あとに呆然と立ち尽くしているあたしを残して。 ゼロスが告げた言葉を頭の中で反芻し――広がる不安を無理に抑えつけた。杞憂だ。何でもない。ここ数日、ガウリイの様子に変わったところなど見られない。いつも通りボケていつも通り笑いいつも通りに話す。 ゼロスはあたしをからかっただけだ。戸惑い、うろたえるあたしを見て影で笑うつもりなのだろう。不安を植えつけあたしの負の感情でも食らうつもりなのだろう。彼の言葉を真に受けてどうする? 忘れるのが一番賢い選択だ。 だが、いくら不安を掻き消そうとしても、打ち消そうとしても。 不安はなくなるどころかより広がっていくばかりだった――――。 |
――終。
稿了 平成十二年四月十六日日曜日
改稿 平成十二年六月三日土曜日