Your gentleness, My pain

 

 


 深い緑の瞳。
 普段は冷たい色を宿しているのに。
「――リナ」
 静かな低い声。
 いつもならそっけなさすら感じるのに。
「リナ」
 やめてよ。
 そんな風に見ないで。
 そんな瞳であたしを見つめないで。
 あたしを呼ばないで。
 優しい優しい声で、呼ばないで。
「リナ」
 逃げ出せない。
 囚われて、もう、逃げ出せなくなる。
 あなたの腕の中から、逃げ出せなくなるから。
 あなたが誰を見ているのか知っていて、なお期待してしまうから。
「――――ッ」
 気がつけば、あたしは彼を力いっぱい突き飛ばしていた。
 驚いたように見開かれる瞳。見ていられなくなり、何も言わずに――言えずに。その場を走り去った。
 ……どうして、だろう。
 いつからだろう。
 彼をこんなにも好きになっていた。
 彼のベクトルとあたしのベクトルは違う方向を向いている。認識させられる度に傷つく。見えない刃で心をざっくりと切り裂かれる。――そう、今のように。なのにこの気持ちを消せない。嫌いに、なれない。
 走りながら泣くと疲れる。
 無様だ、と変に冷え切った頭の片隅で思った。
 今のあたしは、なんて無様なんだろう。
 適当に、人気の無い場所まで行ってから。必死に堪えていた感情を吐き出した。堰を切ったように溢れてくる涙。泣いたら駄目だ、立ち直れなくなる。前を向いて歩けなくなる。
 どんなに言い聞かせても止まってくれない。次から次へと零れて頬を伝っていく。
 立っていられない。がくがくと足が震えている。がくん、と膝が折れて座り込んだ。
 ――――どうして、いつから?
 あたしはここまで弱くなったのだろう。独りで立てなくなるほど、弱くなってしまったのか。
 たかが、恋、なのに。
 信じられないほど、臆病になってる。
 彼の言動ひとつに一喜一憂し、視線が向けられるだけで心臓は壊れそうなほど騒ぐ。微笑みに見とれて、まるで鎖でがんじがらめに縛り付けられたような気分だ。
 何故、好きになったの。
 所詮は報われない。彼の心は遠い場所にある。あたしの手の届く位置に無い。充分に承知していた筈だ。
「……す、き」
 それでも。
 報われぬ恋でも、彼に届かぬ想いでも。
 消せない。
「すき、なのに……っ」
 言えない。
 これまでの関係を崩したくない。
 壊せない。
 これまでに築いてきた日々を。
 ――――どうして、こんなに臆病になってしまったの。
 震える手が胸元を握り締めた。
「……誰が誰を好き、だって?」
 思わぬ場所からの声に、ぎょっとして立ち上がる。
 嘘、どうして。
 探してくれた? あたしを?
 彼の肩が上下している。頬を伝うのは汗か。汗が額にも光っている。
 何かを言わなければ。思いはしても何も言えない。口を開きかけて閉じる。何を言えばいいのか、わからない。
 彼を見上げていた視線を下ろして地面を見つめる。
「リナ。答えろよ」
 言える訳が無いじゃない。あなたが好き、って言ったら、どんな顔をするの。驚いて、また目を丸くする? 迷惑そうに顔をしかめる? それとも、全然別の意味に解釈するの? 家族や友人に向ける『好き』と同じ感情だ、って。
 あたしがあなたの反応を見て何をどう思うのか、わかって言ってる?
 わかっているんだったら残酷だわ。
 ひとがうろたえる様を見て笑ってるの?
 わかっていないんだったら鈍感過ぎる。
 あたしを恋愛に疎いと笑えないほどよ。
 ねえ、わかってる? 知ってる? 気づいてるの?
 あたしがあなたを好きだって。誰にも言えない感情をひた隠しにして、苦しくて切なくて眠れない夜を幾度も越してきた、って。
「――リナ」
 彼は何時の間にか目の前まで来ていた。
 名前を呼ばれた。
 ただ、それだけで震える心を。あなたが知ったら笑うかしら。リナ=インバースらしくも無い、と。数々の二つ名を持つあたしらしくも無い、明日は雪だとでも言って笑う?
「答えろ」
 あたしだけに向けられた言葉。あたしだけに向けられた声。あたしだけに向けられた視線。
 すべてあたしが独占して、何もかもを奪い去りたい。あなたの中から、あなたという存在ごとあたしの中に入れて閉じ込めてしまいたい。子供じみた独占欲でも構わない。あなたがあたしを見つめてくれるなら、なにをしても、誰を傷つけてもいい。あたしだけのあなたが欲しい。
 ――――素直に、言えたら……。
 あなたはあたしを恋愛対象として見てくれるの?
 俯いたままのあたしに業を煮やしたのか。不意に彼の腕がのびてきた。
 殴られる、と反射的にきつく目を閉じて――――。
「ん…………ッ……」
 くちびるにふれた、ぬくもり。
 目を大きく見開いて、飛び込んできた彼のアップに慌てて再び目を閉じた。
 唇が離れても、目を開けられなかった。抱き締められて、力の抜けた体を彼に預けていた。
 とくん、とくん、とだんだん静かになっていく鼓動。昂ぶっていた気分も落ち着いてくる。
 変なの。
 あれだけ暴走していた感情が、すっと収まるなんて。自分でコントロール出来なかった感情を、彼はいとも容易く静めてしまった。
 彼しか、いないんだ。あたしには。
 こんな風にあたしを落ち着かせるのも、泣かせるのも、全部彼にしか出来ない。
 ――――ねぇ、わかってるの?
 あたしがどんなに彼を想っているか。
 わかってる? 通じてる?
 背中に回された腕があたしの体を縛めた。力の強さに文句を言おうとして遮られる。
「……好きだ」
 風に持って行かれそうな程小さなささやきだった。聞き逃さなかったのは奇跡に近い。地獄耳のあたしだから聞こえたのか、それとも。
 彼の、声だから。聞き逃さなかったのか。
 ――どうでも良い。彼の言葉が真実なら。嘘ではなくて、建前でもなければ。
 唇が震えて言葉を紡ぎ出せない。ならば、と言葉の代わりに態度で示した。彼の背中にそっと腕を回したのだ。
 見下ろす彼に、今度はしっかりと視線を合わせて。
 彼の呆気に取られた表情が、次第に柔らかく変化していく。
 そして――――。

 

 

――終。

稿了 平成十二年三月二十五日土曜日
改稿 平成十二年八月十一日金曜日