いまは、もう、動かない

 

 


 さらさら、さらさら……。
 砂が落ちる。一定の速度を保ち、微かに空気を振動させながら。
 さらさら、さらさら、さらさら、さらさら、さらさら……。
 耳には不思議なほど穏やかな自分の鼓動と呼吸音、そして砂の落ちる音しか入ってこない。
 静寂が哀しい。
 ――――この静かな部屋で。
 あなたは独りでじっと佇み、なにを考えていたのか。
 寝ても覚めても真っ黒の空間。闇しか存在しない世界で必死に光を追い求めて。やがて心にまで闇に侵食される。その恐怖を、絶望を、孤独を……いったい誰が理解できただろう?
 さらさら、さらさら、さらさら、……――――。
 音が消える。
 砂はもう動かない。時を刻まない。
 持ち主を喪った砂時計。
 主がいない部屋でなにを――誰を待つのだろう。

 

 

 

 


 目を開く。
 木目の天井が見えた。視線をずらせば、薄汚れた壁や繊維がボロボロのカーテンなどが目に入る。明らかに先刻まで見ていた部屋と違う。部屋に置かれている調度類も、明るさも、雰囲気も。
 ……ゆめ、か。
 長く息を吐く。胸の辺りにわだかまるしこりを消すために。尤も頭では溜息を幾度ついても、しこりを消せぬと理解している。行動が伴うとは限らないが。
 重苦しい気分に押し潰される。
 爽快とは言えない目覚めだ。もう一度溜息をついた。
 なんとなく起きる気になれない。質の良くないシーツに顔をうずめる。枕は近くに無い。眠っている間にどこぞへ押しやったのだろう。
 宿に泊まっていて良かった。野宿であれば仲間の悪意の無い心配でよけい憂鬱になっていた。今回は運良く一人部屋だ。この姿を皆の前に直に晒さずに済む。
 この姿、イコール寝相の悪さ、ではない。それは今更だ。
 ――――夢を見て、泣くなんて……ずいぶん久しぶり――――。
 涙の流れるままに任せる。いくつもの滴がシーツに吸い込まれた。
 ありがとうなんて言わないでほしかった。
 目を開ける。部屋の内装が見える。闇を見るには、瞼を閉じるか夜を待つか。或いは目を潰すか。いずれにしろ彼が生まれた時から背負わされてきた闇の一端さえ窺い知れない。所詮自分は健常者なのだ。
 五体満足で生まれた我が身を初めて疎ましく思えた。
 溢れる思いは後悔だろうか。自分で下した判断に疑問を持っているだけだろうか。
 他に方法は無かったのか。間違っていたのではないか。あとひとつ――見つけた、と思った最善最良と信じた策は。実は単に弱みに付け込み足元を掬っただけだったのでは?
 夢から覚めた今でも簡単に思い描ける。見知らぬ部屋にポツリと置かれた砂時計。実験器具が散乱する場所に不釣合いな。
 ただの想像――夢が見せた、紛い物だ。それでも。
 さみしい場所。冷たい孤独に支配された場所。おそらくは部屋の主の心象風景を移す鏡だったのだろうと想像くらい出来る。
 今更になって何故、思い出したのだろう。何故、夢に見てあまつさえ泣いているのだろう。胸が痛む理由は――?
 一番近いのは罪悪感か。
 良心が、残っていた、彼を。倒す――――殺すという方法でしか救えなかった。殺したのにありがとうなんて。どう考えても感謝の言葉を言われる行為ではない。
 ありがとうなんて言わないで。
 すまないなんて謝らないで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


あたしにはあなたの痛みの一部さえ理解できないのに。

 

 

――終。

稿了 平成十五年一月五日日曜日
改稿 平成十五年六月二日月曜日