Birth...! / (Jesus Christ!)
| ごぼり。 空気のかたまりが口から吐き出された。それはきっと自身が発光しているような青白さを持っているのだろう。そして形状を変えつつ顔の前を通り頭上を越え更に上昇していく。見ずとも、見えずともありありとその様を想像できた。 ここは薄暗いのか完璧な闇なのかもわからない。わたしの目はわたしが定義し信奉している太陽により潰れてしまったからだ。あんなまぶしい光を直視して、どうして視力を失わずにいられるだろう。 太陽は視力のみならず正気をも奪った。己を支配する狂気に気づいた時からずっとここにいる。深く深く、底の見えない――もしかしたら底がない――水の中に。肺に溜まった不要な空気を吐き出しながら。 ああ、息苦しいなあ――――。 なんとものんきに思った。 空気なんて必要無い。窒息死も溺死もおそれない。だってわたしを生かすために必要な糧ならここにある。酸素も食料もいらない。鼓動を止めるこの水さえあればいい。欲を言えばあなたにもここにいてほしいけれど。 肉体はゆっくりした速度で確実に沈んで行く。(目が無事だったとして)上であろう方を見ようにも水面を視認できない深さにまで来てしまった。 いまからでも遅くないだろうか。水面を目指し、もがいて泳ぎ続ければ、いつか水上に顔を出せるだろうか。ここで溺死する前に。身も心をも狂わす凶悪な感情から逃げおおせられるだろうか。自身どころかあなたまでも滅ぼしかねない思いを知らなかった頃の自分に戻れるだろうか。水から出たらもう見えないあなたの姿も見えるようになる? つぶれた眼は治り正常に世界を見られるようになる? あなたへの想いから生まれたこの水の中で溺れ死ぬ。または想いを捨て水を干上がらせ、存分に空気を吸える外へ出る。どちらが楽になれる方法だろう? どちらがよりはやく後味の悪さもなくわたしを楽にしてくれるだろう。 ――考えるまでもない。答のわかりきった問いだ。 あなたを愛する心に溺れ、あなたへの想いで体を満たし死ぬ。これ以上の幸せな死にかたなど存在しない。いま以上の幸せな生きかたなど存在しない。 ねえ、わたしがあなたに溺れて死んだら。一瞬でもいい、わたしを見てくれる? わたしだけを見て私だけに話しかけ笑い泣いてくれる? 外の世界が知覚できないこの場所で、いくら愛していると泣いてもあなたが欲しいと叫んでもあなたに届かない。何をどうすればあなたに教えられるだろう。いっそわたしが死ねば嫌でもあなたに届くかしら。 わたしがここで溺死したら。あなたを愛する心から生まれた水は発生源の滅びにより供給の途を絶たれ太陽熱で蒸発するでしょう。そして水に取り巻かれていた屍を外の世界に晒す。 ねえ、もしそうして死んだらわたしの言葉も想いも信じてくれる? 冗談で片付けないで真面目に受けとめてくれる? 応えてくれなくてもいいの。高望みしないわ。自分の分くらいわきまえられるつもりよ。まばたきより短い時間で構わない。わたしの想いを一度だけでも真正面から見て認めてくれたら。忘れてしまってもいいから。ちゃんと知って、認めてよ。わたしはここにいるの。ここであなたを愛しているの。気づいて。 ぬくもりはつめたい水の中ですぐさま消えてしまう。わたしの体温なんて残ってないわ。昔あなたから分け与えられた熱さえ冷えきっている水と同化する。わたしの想いを、痛みをあなたに知られず冷たい水の中で漂っているだけなんて寂しすぎる。 伝わればいい、たったひとかけらでも。わたしが味わっている凍えるほどの孤独が。醜い愛の結晶であるわたしの死体を眼球に映して。いたずらでも嘘でも偽物でもないって信じてほしい。 わたしの死骸はすくなくともあなたを愛した証拠になるわ。死因が死因だもの、認めない訳にいかないでしょうね。あなたを愛するあまり死んだ愚かな女の肉の塊を直視できなくても。まさか否定なんてしないでしょう? 拒絶など認めないし赦さない。なんのための死かわからないじゃないの。 あなたは何も知らないんだわ。知らないからそうやって微笑っていられる。あなたがわたし以外の誰かに話しかけ、わたし以外の誰かを目に映す。わたしを見ないあなたを見る度、すべてを壊したくなるの。誰も彼も魅了する綺麗な笑顔をわたし以外の誰にも見せないでよ。 あなたがわたしの名前を呼んでくれるなら、ここに来てわたしを見てくれるなら、苦しみなど跡形もなく消えてしまうのに。 飛んで来て、どんな事情があっても何を捨てても。ここへ来てわたしを救って。あなたが来てくれるなら自分をなだめられるから。あなたの存在を全身で感じとってわたしのすべてであなたを抱き締めるから。破壊衝動も嫉妬も殺意も無くなるから。あなたさえ来てくれたら。 そうしてふたり、だれにも邪魔されないここで息を止め肉体を朽ち果てられたなら。永遠の安息を手に入れられる。わたしにはあなたしか見えず、あなたにはわたししか見えず。ああ、ふたりきりの世界で死ねたら! けれど現実にあなたは来ない。どんなに願っても祈っても。わたしは自分が狂っている素振りなど見せない。仮面を貼り付け決して剥がさない。あなたを欲する心を誰にも気づかせない。あなたにさえ。 あなたはわたしを見ない。あなたはわたしのものにならない。知っているわ、わかってるわ。意地でも泣かないけれど。潰れる胸を押し殺し黙ってここからあなたを見てる。苛立ちを隠し独りで。馬鹿な女と愚かにもあなたへの想いを捨てきれず抱え込むしか出来ない自分を嗤って。 わたしがあなたを見てると、あなただけを見ていると誰一人気づかないでしょうね。盲た眼球であなたを見るのだから。 それでいい。誰にも気づかせない。この想いが第三者の口からあなたの耳に届く危険をどうして冒せよう? わたしが引いた拙い境界線を曖昧なバランスで保つ。そっとそっとあなたから距離を取る。あなたに想いを知られないように。受け入れてくれると思えないから。拒まれて避けられたらどうすればいい? 自分を奥深く沈める水をきっと暴走させてしまう。わたしを外界から隔絶する役目を放棄し外に飛び出してしまう。あなたを呑み込み、わたしとあなた以外のすべて――異物を呑み込み、世界すら覆ってしまう。 だから嘘をつく。あなたが愛する世界を侵さないよう、害さないよう、壊してしまわないよう、穢してしまわないよう。親友である自分を、仲間である自分を演じる。あなたしかいらない、他は何も欲しくないと身を引き裂く想いを否定する。裏に押し込め決して表に出さない。 人間とはおかしな生き物ね。いいえ、わたしが滑稽なだけかしら。自分から距離を取っているのに届きそうで届かない位置にもどかしさを覚える。自業自得。そう、その言葉が一番ふさわしい。なんて情けなくて無様な姿なのでしょう。身動きの取れない自分を憐れんでしまう。 嘘で塗り固めた自分がこのごろ愛しいとさえ思えるの。あなたを近くも遠くもない場所で愛するしか能のない人間。あなたを愛するのは自傷行為に似ている。報われない想い。第三者に何の他意もなく気軽に触れ話す、あなたの行動にどれほど傷つけられたか。けれどあなたから与えられた傷だからこそ愛しい。止まらない血も痛みも。誰の目にも触れない傷。わたしに刻み付けられたあなたへの想いの証。自慢であり誇りであり糧よ。わたしだけの傷だから痛くても失血死寸前になっても聖女のような微笑みを浮かべられる。 あなたに親友として、仲間として見られると罪悪感でいっそひとおもいに殺してくれと泣き崩れたくなる。無知で案外、世間知らずなあなたの足下にひざまずき赦しを乞いそうになる。これほどまでに愚かで単純で捻じ曲がった生き物など他にいやしない。貴重だわ、泣けてくる。我ながら良くぞここまで屈折できると感心する。好きだから好きだと素直に言えればいいのにね。言えないから余計に思うわ。 あなたはわたしを見ない。わたしに決して捕まらない。わたしに囚われない。わたしがあなたを想うようにわたしを想わない。だからあなたの信頼を踏みにじっている塵屑同然の私を知られたくない。だったら完璧に嘘をつき通すしかないじゃない? 薄皮一枚隔てたこちら側でどんな醜さを隠し持っていたとしても知られなければいい。 こんな偽りでさえ続いていく。この世界があなたやわたしの生まれるずっと前、有史以前の大昔より続いているように。いくつの夜を越え朝を迎えただろう。恋や愛や執着というなまやさしい言葉でくくれない感情を持ってから。思い出せないくらい昔なのね。忘れてしまうほど日々を費やしてしまった。それでも現実が何かを包むから。あなたを優しく、わたしにもやさしく。甘いぬるま湯に浸かって。狂う以前の自分という影を作る。あたかもその影が真実の姿のように見せかけ。 戻れるなら戻りたい。自分でも持て余している執着を知らなかった頃の自分に。時間を戻す術でもない限り、かつての自分に戻れない。狂気を捨てる術など知らない。異常な感情とあなたを知らなかった頃の自分を思い出せない。だから戻りたくても戻れない頃の自分を、作りだした影を眺め自分を慰める。あなたが欲しいと無いものねだりをして暴れる自分を静める。 ごぼり。 また肺にしこる二酸化炭素を吐き出す。出し尽くすまで何度でも繰り返す。 わたしだけを見つめるあなたという幻を抱き、沈む。 いつか溺れ死ぬ日を夢見て。 自滅の一途をたどり終わりを見つめて。 あなたを想う自分の心に抱かれて。 深くふかく、どこまでも。――――いつまでも。 |
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――終劇。 稿了 平成十五年九月二十二日月曜日 改稿 平成十五年十月二十日月曜日 |