油断していたと言うほかない。
昨日電話したときも、今日メールをやり取りしたときも。普段となんら変わらなかった。だから思い出しもしなかった。今日が何の日か。
時刻は午後の六時過ぎ。この時季は真っ暗だ。朝晩は涼しいを通り越して寒い。寒がりにとっては早くも手袋を欠かせない。むろんカイロも。靴用のカイロ(ないとしもやけになる)と、小さい携帯用のカイロの二種類。服に貼るタイプのカイロはまだ使わなくても平気な寒さだ。
鉄製のノブを握りドアを開ける。手袋は室内で外す。いま外すと寒い上に冷たい。鉄は冷える。
「お邪魔しまーす」
室内は真っ暗だった。出かけているのだろうか。ガチャンとドアが閉まる。
思ったほど暖かさを感じられない。暖房を切っているようだ。外出中なら当然――だが、ミルガズィアさんはあたしの来訪を知っている。学校を出る前に行ってもいいかと確認のメールを送った。了承の返事をもらったから来たのだ。
出先でメールを受け取ってまだ帰ってきていない? それなら鍵をかけて家を出るはず。長時間家を空けるのに鍵をかけないなんて無用心すぎる。
急用で家を出るにしても暖房を消すのは不自然だ。寒がりだと知られている。連絡もなかった。
念のため、声をかけてみる。
「ミルガズィアさん?」
返ってきたのは静寂のみ。やはりいないらしい。首を捻りながら靴を脱いで玄関に上がる。
しまった。外で携帯を出せば良かった。携帯の光があると周囲を照らせる。もう一度出る気にはなれなかった。室内も寒いが外に比べれば暖かい。風が吹いていない分、体感温度が違う。
カバンのファスナーを開け中を探る。教科書、ノートに筆記具、お弁当箱、他お菓子やら何やらごちゃごちゃたくさん入っている。
ここ、玄関にも電気のスイッチはあるが手探りで探し当てる自信はない。自分の家ならともかく。何度もお邪魔しているがスイッチの場所を体が覚えるほどではない。
しょうがない、一旦外に出よう。携帯を出すにしろスイッチの位置を確認するにしろ、暗くては不可能だ。
あーやだやだ出たくない。
でも来なければ良かったとは思えない。暗くても暖房がついてなくても。本人がいなくても。待っていれば会える。暗いなら電気をつければ明るくなるし暖房は電源を入れればいい。大騒ぎするほどの事件じゃない。
足で靴を探す。ローファーはすぐつま先に当たった。家に上がってから動いていなかったおかげだ。はだしで外に出る事態に陥らなくて良かった。しもやけになってしまう。
靴を履いてつま先で床を叩く。靴用のカイロを仕込んであるせいで、なかなか馴染まない。なければないで困るが。
空気が動いた。前方のドアからではなくて、背後。冷たい空気がざわりと。
人間の息づかいを感じる。動物ではない。頭上からだ、あたしより身長の高い動物が家の中にいたらおかしい。何よりミルガズィアさんは動物を飼っていない。ここも動物を飼えるマンションではなかったはず。確認していないけれど。
動物でないのならば人間だ。
だれ? 強盗? ミルガズィアさんがいない間に家に入ったの? それとも、いる間に?
体が緊張で固まる。体温が一気に下がったような錯覚。じわりと嫌な汗をかく。
冷たい手が頬とあごに触れた。
「Trick or treat」
ささやきに近い静かな声が耳元に落とされた。脳がだれの声か判別した瞬間にその場にへたり込む。
ぱちんと音がして明るい光が満ちる。
「大丈夫か?」
目が明るさに慣れるまで。自分に言い訳して立てた膝に顔を伏せた。足の震えが止まらない。
ミルガズィアさんが脅かすからだ。肝が冷えた、なんて一言で片付けられない。
いたずらで良かった。ミルガズィアさんで良かった。不吉な想像が現実でなくて良かった。
再度、空気が動く。頭上に影がさした。
「……悪かった」
悪いなんてもんじゃないわよ。本気で驚いたんだから。変な想像しちゃうし怖かったし、見てよまだ震えが止まらない。
後から後から湧いて出てくる文句を、口の外に出す元気もない。
ゆるく抱きしめられて息を吐く。
性質の悪いいたずらだった。大丈夫だ。不安も心配も根こそぎ消してしまおう。
ばか、と呟く。
うっかり弛んだ涙腺を引き締めるには、しばらく時間がかかりそうだった。
いつまでも玄関先にいては冷えると強制的にリビングに連れて来られて(当たり前のように抱え上げられた)数分後。ミルガズィアさんはすぐ戻ると言って出かけていった。誰かからの電話を受けたあとスーツに着替えていたから仕事だろう。
暖房はつけていってくれた。おかげで暖かい。勝手にココアを作ってようやくリラックスできた。
家を出て三十分。そろそろ帰ってくる頃合いだ。
同じいたずらをやり返そうと、思わないでもない。だけどさっきの今ではすぐに気づかれそうだ。そもそもあたしでは背が足りず、脅かすにはインパクトが足りない。
それに、まだ覚えている。血の気が引いて指先まで冷えた。驚いた以上に怖かった。どうしたってショックを引き摺ってしまう。だいぶ落ち着いたとはいえ。
温かいココアをひとくち飲む。冷たさを消すためにカップを両手で包んだ。
また来年。覚えていたら。同じいたずらでは芸がない。ミルガズィアさんだって簡単には驚いてくれなさそうだ。
来年のいたずらは来年考えるとして。今年はどうしよう。
テーブルの上には山盛りのお菓子。ドーナツにマシュマロ、飴、チョコレート、クッキー、マドレーヌ、バウムクーヘン、マカロン、フィナンシェ。リビングに連れて来られたとき既に置いてあった。更に冷蔵庫には各種ケーキに加えゼリー、プリンなどなど。
ココア作る際、冷蔵庫を覗いて驚いた。ケーキの類がぎっしり詰まっていたからだ。
あたしのためというのは疑いようもない。ミルガズィアさんは出る前に食べていいと言い残していった。でも何だか。さっきのいたずらをお菓子で帳消しにしようとしているように見える。だからじゃないけど、どれにも一切手をつけていない。
飴を指ではじく。
そういえばあたしも飴を持っていたのだった。
カップをテーブルに置き明るい照明の下で安心してバッグを漁る。他のお菓子と違って一瞬で食べ終わらないから余るのだ。夏場以外は常備されている。夏は暑いから溶けてしまう。
味は五種類。イチゴ、メロン、桃、オレンジ、薄荷。手を突っ込んで適当に取る。引き当てたのは薄荷だった。
あたしは好き嫌いをしない。反対にミルガズィアさんは好き嫌いが激しい。偏食で足りない栄養はサプリで補えばいいと開き直っている。
薄荷もそうだ。眠気覚まし系のガムは絶対に口にしないし、フリスクやミンティアなどの清涼菓子も同じく。煙草はメンソールを避ける徹底ぶり。口の中がすーっとする感覚が苦手だと言っていた。
お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ。ハロウィンの合言葉。
言われる前にいたずらされた。だったらあたしだって有無を言わさずいたずらしたって許されるわよね。嫌だろうが何だろうが自業自得、因果応報。返ってきたブーメランを上手く受け止められないなら、はじめから投げるべきでないのだ。
閑静な住宅街。日が落ちれば静かになる。足音を聞き取れる程度には。
間を置かず玄関のドアが開かれた。ぴりりと個包装を破く。白い飴玉が現れる。飴をつまんで口の中に放り込んだ。
玄関に向けて声をかける。
「お帰りなさい」
ああ、ただいまと返事が返ってくる。本人が声を追ってリビングに来た。
「食べてないのか」
何その意外そうな声。いささか気分を害しながらソファの後ろにいるかれに開けたばかりの飴の袋を振る。ミルガズィアさんが用意したお菓子ではないが、ここまで積まれていれば判別できないだろう。
ゴミと化した飴の袋をテーブルに投げて、納得した体のかれに手招きする。ソファに身を寄せ頭を下げたかれのネクタイを掴む。ぐっと引っ張り更に頭の位置を下げさせた。
「Trick or trick」
お菓子はいらないから、いたずらさせろ。
驚きのあまり反応できないでいるミルガズィアさんの唇に唇を合わせ飴を押し込んだ。
ミッションコンプリート。目的を達成したためさっさと離れる。
「…………薄荷か」
口元をおさえるかれに笑ってソファに座りなおす。
「噛んじゃダメだからね」
飴は一度噛むと癖になってしまう。味わわないなんてもったいない。……とはむろん建前。いたずらの仕返し、もとい、お返しだ。ちゃんと最後まで堪能してもらわないと。
ソファを乗り越え隣に座ったかれに構わずお菓子を物色する。
飴は食べたからもういい。チョコレートは濃厚すぎる。マカロンは軽すぎる。ドーナツはちょっと重い。
小高い山を崩し出てきたお菓子に目をつける。マドレーヌにしよう。
食べる前にココアを飲む。少し冷めたが充分美味しい。熱いうちにマシュマロを入れても美味しい。溶けてふわふわになるのだ。二杯目を飲むとしたら忘れないでおこう。せっかくココアとマシュマロの両方そろっているのだから。
ミルガズィアさんはひたすら無言で飴を舐めている。顰めっ面なのは本当に苦手だからか、不本意だが仕方ないと思っているからか。たぶん両方だ。
頑張って噛まないで完食できたらコーヒーでも淹れてあげようか。
他愛ない勝利を祝ってマドレーヌを味わった。
――終。
稿了 平成二十二年十月二十八日木曜日
改稿 平成二十二年十月三十日土曜日