残夏





 喉の奥がイガイガする。
 まだ風邪が完全に治っていなかったようだ。眉を寄せる。空気が気管をせり上がり、たまらず外へ吐き出した。
 うっとうしい。誰が夏風邪は馬鹿が引くと言い出したのか。暦の上では秋だ。いくら残暑が厳しくても秋と言ったら秋だ。自分に言い聞かせてもむなしい。
 不意に風が動いた。空気の流れを読むように顔を動かす。ミルガズィアさんが立ち上がったところだった。
「すまない」
 ……なにが。
 目を見開き彼を見上げるも視線の問いに答えてくれなかった。呆然としている間に私室へ姿を消す。
 彼は決しておしゃべりな人間ではない。唐突な行動には慣れていたつもりだった。問題は無い。少ない言葉で説明されたり、されなくてもすぐ行動の理由を推察できたからだ。だがさすがに今日のこれは理解できない。
 それまで会話は無かった。ミルガズィアさんは本を読みつつメモを取っていた。仕事関係だろう。帰ってくるなり取り掛かったから。あたしは明日の授業の予習をしていた。ケンカはしていないし失礼な態度を取られてもいない。つまり謝られる覚えが無い。
 首をかしげ、ぐるっと周りを見回す。
 あたしは床に直に座り、クッションを挟んで壁に背中を預けている。足の先はリビングだ。黒い革張りのソファとガラスのテーブルがある。ミルガズィアさんは先ほどまでそこに腰掛けていた。
 ソファにはクッションがいくつか並べられている。カバーはあたしが作った。学校の課題だったのだ。我ながら良い出来だ。ただ自宅で使う気になれなかった。クッションなら間に合っていた。大量にあっても置き場所に困る。それならと持ち込んで、ここにある。
 ソファの脇にはマガジンラックが置いてある。中には薄い雑誌が5冊ほど。あたしが持ち込んだ音楽雑誌と暇つぶし用のクロスワードパズルの雑誌1冊ずつ、あとは彼の趣味の雑誌だ。たぶん通販のカタログだろう。忙しいときに息抜きになると云っていた。
 テーブル上には本が1冊とメモとボールペン、灰皿とライターとタバコの箱が乗っている。主がいなくて寂しそうに見える。
 慌ててはいなかった。怒ってもいなかった。悲しんでいる様子も楽しんでいる様子もなかった。手がかりはあまりに少ない。じっくり観察していなかったから彼の表情や態度から何も読み取れない。
 予習の続きをする気になれなくて、なんとなく天井に目を向け、また灰皿に落とす。吸殻が2つとまだ長いタバコが1本。先端は潰れている。吸っている途中で消したらしい。私室へ行くならそのまま持って行けばいい。どうして消したのだろう。
 2回、3回とまた咳をして喉をさする。
 咳は、つらい。連続して出ると吐きそうになる。
 学校帰りに喉飴とマスクを買ってくれば良かった。治ったとばかり思っていたから家から持ってこなかったのだ。
 うがいをして……いや、その前にコンビニで買ってきてから手を洗ってうがいをしよう。
 右手のシャーペンと膝の上の教科書、ノートを横に除ける。立ったちょうどそのときだった。
「大丈夫か」
 彼が戻ってきた。無表情――ではなくやや顔がしかめられている。険しさは無い。一般的には心配そうな表情と言うのだろう。スーツからラフな格好に着替えている。上は黒のシャツ、下はジーンズ。
 額に当てられた手に両手で触れる。彼の手はいつもひんやりしている。エアコンの設定温度は25度。クーラーのせいではない。風が当たる場所にいなかった。平熱が低いのだ。
「熱は無いな」
「……治った」
 間近にある顔から目を逸らす。視界の端では彼が苦笑していた。おおかた、しょうがないとでも思われているのだろう。
 手が外れる。名残惜しくもあたしも彼の手を解放した。
「ほら」
 ぽんと何かを手渡される。喉飴と、未使用のマスク。ここに至ってようやく謎が解けた。
 治ったのに、と意地を張らず受け取る。素直に感謝しよう。わざわざ吸い始めのタバコを消して、更に着替えまでして取りに行ってくれたのだから。
 リモコンで何やらエアコンを操作した――おそらくは空気清浄の機能を作動させた――彼に近づき後ろからおもむろに抱きつく。タバコの匂いが微かに香る。直前まで吸っていたのだから当然だ。ましてや日常的に吸っている。着替えてもそう簡単に消えない。
「リナ?」
「タバコのにおいがする」
 ちくちくと喉を刺激する。痛みを不快に感じない。不思議と許容できる。
「シャワー浴びてくるべきだったか」
 大袈裟なセリフに顔をゆるめる。気を遣いすぎていると見るべきか、心配性だと見るべきか、甘やかしすぎと見るべきか。
 首をねじりこちらを見下ろしている彼に笑いかける。
「そこまでしなくてもいいわよ。ありがとう」
 感謝の言葉は大事だ。うれしいと感じた心をとても簡単に相手へ伝えられる。言われたほうも嬉しい。自己満足で終わらなかったと認識できる。役に立てて良かったと思え、役に立てた自分を好きになれる。
「いや。気づけなくてすまなかった」
 気にしないと態度で伝えているのに頑固だ。
 喉飴とマスクを持つ手を彼から離す。「これで帳消し」と振って見せる。それで妥協したらしい。彼が微笑ってこの話題を終わりにした。
 いつまでも抱きついているのも何なので(ふたりして身動き取れない)離れる。
 予習はどうしよう。やる気が失せてしまった。家に帰ったらやろうか。やらなくても不都合は特に無い。英語は得意科目だ。
 ぼんやり教科書を眺めていたから気づかなかった。不穏な色が混じった彼の微笑に。
 ふっと平衡感覚が無くなる。倒れる、と思うより先に身近な支えにしがみついた。びっくりしすぎると声も出ない。支えを得てほっとすると同時に彼とばっちり目が合う。目が笑っている。
 顔と顔の距離は比較的近く目の高さもほぼ同じ。結構な身長差があるため、ふだん目線は同じ高さにならない。階段の上や椅子などを踏み台にしない限り。体が浮いている理由も顔が至近距離にある理由もわからず、ひたすらミルガズィアさんの顔を見つめた。答が書いてあるわけもないのに。
 視線が外れ平衡感覚が戻る。やっと平常心と周りを見る余裕も戻った。要するに抱き上げられた状態でソファまで移動していたのだった。理解が追いつき力が体から抜ける。
 彼といると、たまにこうして驚かされるから退屈しない。退屈しないのは構わないが心臓に悪い。それでも居心地が良くて一緒にいたいと思うのだから、どっちもどっち。一方的に責められない。結局はあたしも楽しんでいるのだ。振り回されるのも楽しい。
 ところであたしの位置や姿勢は変わっていない。お姫様抱っこされた状態で座った(座らされた)から、彼の上に座っている。なんとなく、嫌な予感がしなくもない。抱きしめられていると言うより拘束されていると言ったほうが正しい気がする。
「煙草を手放せないのは知っているだろう」
 唐突な質問に脱力から立ち直る。意図を読めないながらも頷く。事実だ。禁煙しても1週間と持たない。1日に数本吸わないと落ち着かないようだ。ヘビースモーカーではないからと本人も最近居直ったようだった。
 あたしは煙も匂いも気にならない。美味しいのかな、と気になるときはあっても。だから喫煙について彼に何か言おうとは思わない。匂いが制服についても、家族が喫煙者だと言えば済む。学校ではそれで通している。実際あたしは吸っていないから、やましくも何ともない。
 彼は悪戯な光を瞳に宿している。まだ何か悪巧みを隠し持っているらしい。
「だが今日は吸えない」
 気にするなと言っても頑として首を縦に振りそうにない。
 説得は諦め、また頷く。瞬きで先を促した。
「口が寂しいんだが?」
 あざやかなミルガズィアさんの微笑にどうして逆らえようか。
 ひょっとして、全部はじめから計算ずくだったのだろうか。気遣いでも心配性でも甘やかしていたわけでもなくて。
 疑惑は確かめなかった。
 いまは要求に応えなければならなかったから。寂しがりの彼が、飽きるまで。




















――終。

稿了 平成十七年九月五日月曜日
改稿 平成十七年十月九日日曜日

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愛の言葉で50のお題/31:口が寂しいんだが?














































































以下はあとがきですが本館の日記のノリです。雰囲気を壊したくない方はレッツブラウザバック。何が来ても受け止める覚悟は出来ている! という豪気な方は下をレッツ反転。



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愛の言葉で50のお題
31:口が寂しいんだが?



リンクはもうちょっと上のほうにあります。こちらではテキストのみで失礼。

お題を見た瞬間に見るさんだと電波が。いや違うインスピレーションが。ビビビっと。古いですよ住刃さん。見つけた勢いで書き上げてしまいました。ほんとうは本館の拍手お礼に使うお題を探していました。五十のお題ですが一題から持ち帰ってOKとのことでしたので、このお題のみテイクアウトしてきました。別館見るさん以上にこのセリフが似合うキャラもそうはいまい。……魔剣士さんなら言いそうだな。うんでも電波が見るさんだと私を洗脳したので見るさんで!

シーンとしては短いのになんでこんな長くなったんだろう。説明臭くなったのが敗因?

どうでもいいことなんですが、何故だか書いている最中、微笑みと書くのが恥ずかしかった。微笑も恥ずかしかった(書いたけど)。キスの二文字も妙に恥ずかしかった(からこれは使わなかった)。ひさびさのラブ甘にまだ抵抗があったようです。ううむ。見るリナで純粋ないちゃつき話はかなり久しぶりですからなあ。って言うかいちゃついている話自体最近全く書いてませんでしたからなあ。リハビリ。文章がぎこちないのはそのせいです。読みにくかったらごめんなさい。ラブは難しい。今まで書いた見るリナのラブ話と雰囲気が変わってしまった。つか見るさんが。もう少し喋らせれば良かったかな。次回への課題にします。

あっしまったリナが全然喋ってない! 雰囲気が変わったのって見るさんが喋らないからじゃないのか。リナが喋らないからなのか。そりゃ雰囲気も変わるわ。口数少ないリナって。

そして毎度の如くタイトルに困る。ダメ出しした候補の一例。
「ウサギ」(さみしいとしんじゃうんだよ)(この話のミルガズィアさんが寂しさで死んだらギャグだよ)
「寂しがりのマイダーリン」(頭煮えてるとしか思えない)
「いたずらなKISS」(……)
「KISS ME」(リナが見るさんに言っているように見せかけて実は逆というギャップを狙えるかと思いましたがネタバレなのでやめ。タイトルで最後が予測できるなら無意味)
「残香」(ざんこう。→と同じような意味)、「残り香」(別の話で使いたいがために却下)
みんなそのままやんけ。いっそお題をタイトルに使おうかと思いましたがこれもネタバレなのでやめ。タイトル思いつかなくて公開が延びたなんて事実はここだけの話です突っ込んじゃ嫌です。タイトルの「残夏」はざんかと読みます。夏の末、または夏の名残という意味だそうです。ここでは夏の名残という意味でタイトルにつけてます。季節外れですね。九月にアップできなかった理由は日記に書いてます……。

では最後に。見るさんに「リナにマスク渡した意味がないです!」「実は喉飴+キスでべたべたに甘い話を展開したかったのでしょうさあ吐け!」と突っ込んで終わりとしましょう。前者は書いたあとに気が付いて後者は書いたあとにこのネタ使えば良かったなあと後悔したネタです。次回に期待(書くのか)。