雨の音が聞こえる

 

 

 


 暗いな。
 本から顔を上げる。室内と外の暗さが気になった。電気はつけていない。
 現在時刻十三時二十一分。掛け時計で時間を確認し、ぱたんと本を閉じる。ガラスのテーブルに置いた。
 晴れていれば自然光で充分明るい時間帯だ。暗さを感じるというならつまり、天気が悪いのか。洗濯物を干した時には僅かながら晴れ間が見えていたのだが。などとぼんやり考えつつ窓を眺めた。
「……うそ」
 思わず呟き慌ててベランダに出る。
 部屋の中が暗い筈だ。雨が降っていた。音が聞こえなかったから気付かなかった。
 幸い風は吹いていない。洗濯物は乾いていないが雨にも打たれていない。
 手早く取り込む。吐いた息の白さに顔を顰めた。
 このごろ陽射しは暖かくなっていたもののまだ二月だ。春は遠い。
「さむ」
 洗濯物を室内に干し直す。暖房の設定温度を上げる。洗濯物を乾かす為と、外に出て冷えた体を手っ取り早く温める為に。
 雨は好きじゃない。
 例えば太陽が隠され気温が下がったり、洗濯物が乾かなかったり、布団が干せなかったり。外が暗いせいで気分まで沈んだり、――出かける予定が潰れたり。
 台所に立ちやかんに水を入れる。
 ここ一ヶ月ほど緑茶ばかり飲んでいる。姉から貰ったのだ。正確には美味しいから飲みなさいと押し付けられた。しぶしぶ飲んだら本当に美味しく他を飲む気になれない。
 緑茶の前はフルーツティーだった。こちらはフィリアに貰った。珍しい紅茶が手に入ったので、と勧められて。……貰ってばかりだ。
 貰ったと言えば、この前のバレンタインにアメリアからクッキーを貰ったのだった。置き場所に困って冷蔵庫にしまった気がする。
 冷蔵庫を開けると矢張りあった。どうせならお茶請けにしよう。まだ一個も食べていない。美味しかったと感想を報告したい。
 肝心のお茶はどうするか。緑茶は洋菓子に合わない。フルーツティーはもう切らしてしまった。紅茶で封を開けていたのはアールグレイか。
 戸棚を開けて缶を取り出す。残り少ない。外に出た時、忘れずに買ってこよう。
 水が沸騰する前に一旦やかんを取り上げる。火は止めない。ポットとカップにぬるめの湯を注ぐ。湯気が立ち上る。熱湯ではないがそれなりに熱いようだ。
 やかんをコンロに戻す。冷蔵庫からクッキーを出しリビングまで戻った。本の近くに置いて再び台所へ。水が沸騰したところだった。タイミングがいい。
 ポットとカップの湯を捨ててからポットにリーフを入れる。続いて湯を注ぎ入れ、アールグレイの缶を棚にしまった。ポットとカップを持ち再びリビングまで行く。
 ソファに座り背もたれに体を預ける。なんとなく読書を再開させる気になれなかった。
 クッキーをつまみ時計を眺める。十三時三十八分。
 そう言えば部屋が暗いままだ。台所に行く前に電気をつければ良かった。我ながら要領が悪い。自分に対して腹が立つ。
 再び立ち上がる。パチンと部屋の電気をつけた。
 部屋は明るくなったが心まで明るくならない。昼間につける電気は雨と同じくらい好きになれない。どこか無機質でよそよそしさを感じる。隣に誰かいたなら気にもならない。
 ……いれば、良かったのに。
 ソファに戻りポットの蓋を取る。きれいな琥珀色だ。蓋を戻しそろそろいいかとカップに注いだ。広がる香りに我知らず微笑んでいた。
 本当は行く予定だった。学会が正午過ぎに終わると云っていたから、帰ってくる時間に合わせ。
 晴れていたらの話だ。雨の中に行ったら怒られてしまう。せっかく風邪を治したのだから無理は禁物です、病みあがりなんですからと。晴れていたら陽射しが暖かいから大丈夫と言えるのに。
 いや、怒られる……ではなく困らせる、か。
 きっと苦笑して言うのだ。「駄目ですよ、もっと自分の体を大切にしてください」と。マゾではないから体を痛めつけてなどいない。だがイコール体を大切にしているという意味にはならない。
 それくらい、わかる。わかるが。風邪なんて一週間前に治っている。もう病みあがりとは言えない。反論しても無駄だから仕方無しにそうねとわかった振りをする。来てしまったのだから追い帰せないとあたしを迎え入れる様を容易に想像できる。だから押しかけない。困った顔を見たいから会いたいのではない。
 雨が冷たいから。外が寒いから。あたたかい紅茶かコーヒーを一緒に飲みたいから。時間を共有したいから。声を聞きたいから。顔を見たいから。……独りが、寂しいから。
 あいたいな。
 会えないと余計に会いたくなる。
 もう本の内容なんて頭に入ってこない。美味しい筈の紅茶も美味しくない。
 眉間に皺を寄せ溜息ひとつ。溜息をついたら幸福が逃げる。誰が言ったのだったか。会いたいのに会えない、これ以上の不幸がどこにある?
 家事以外のなにもしていないのに疲れを感じる。全体重をソファにぐったり預けた時だった。
 ピンポーン。
 チャイムが陰鬱な空気と雨音の間を擦り抜けた。
 誰よこんな気分の時に。
 新聞や宗教の勧誘だったらと思うと居留守を使いたくなる。回覧板も同様に。応対が億劫だ。
 いないから帰って。――と胸の内で言っても向こうに届かない。
 宅配便だとしたら出なければ。面倒だのなんだのという理由で居留守を使ったら配達員に失礼だ(それこそ高熱で臥せっているなら兎も角)。この寒い雨の中、来ているのに。尤もそれが仕事と言ってしまえばそれまでだ。
 ピンポーン。
 ……しょうがない。出るか。
 二度目のチャイムに漸くのろのろ立ち上がる。俊敏とは言い難い動きで玄関まで歩く。インタホンが壊れている為、直接出なければならないのだ。面倒ったらない。
 勧誘だったら怒るぞ。
 内心をそのまま顔に出して(隠す気など毛頭無い)ドアを開けた。
「どちら様……」
 最初に目に映ったのは黒。
 黒い、ロングコートだ。水の沁みが所々にある。片手に持つ傘で雨を防ぎきれなかった結果か。
 体格から男だとわかった。その次に与えられた情報が上から降ってきた声だった。
「会いたくなったので、来てしまいました」
 にわかには信じられなかった。
 だってまさか、会いたいと思ったら来てくれたなんて。魔法使いや超能力者じゃあるまいし。いまどき少女漫画でも使われない。
 それに会いに行けば迷惑になると自粛していた矢先だ。来訪が当然、という顔なんて出来ない。
 ゆるゆると顔を上げる。視線がコートのボタンから首、顔へと順繰りに移る。見慣れた顔があった。少し照れくさそうに、はにかんでいる。目が合う。瞳の中に彼の性格そのままの優しさを見て取れた。
 彼の顔を見上げた姿勢で固まる。顔を見てもまだ信じられない。これは現実なのか夢を見ているのか。こんな展開、都合良すぎるではないか。
「迷惑でしたか?」
 問われてようやっと硬直から抜け出せる。
 ぎこちなく首を左右に振った。
「……あたしも、会いたいと思ってたから……」
 半ば呆然とした呟きだった。それでもきちんと聞こえたようだった。
 良かった、という心底安堵した声に自然と微笑んでいた。
 嬉しさが弾けて広がった。




――続き、読む?

稿了 平成十五年四月十一日金曜日
改稿 平成十五年八月十六日土曜日