桜花





 ここに来るのは二度目だ。
 たまに、今日のように遠出する。多くはミルガズィアさんの提案で。雨上がりに紫陽花を見に出かけたり、夏休みを利用して避暑地に出かけたり、晩夏に差し掛かると人手の少ない時間を見計らって海に行ったり。今年に入ってからは、ほころびかけた梅の蕾を見に行った。そして今日。散り始めた桜が目の前にある。
 花びらが春特有の強い風に豪勢に舞い散る。髪にも服にも関係なく落ちてくる。ずっと突っ立っていたら花まみれになりそうだ。
 髪を掻き揚げ花を取るミルガズィアさんを横目に右手を伸ばす。彼ではなく桜に。桜の花びらに。地面に落ちる前に捕まえられたら幸せになれる。そんな迷信を信じているわけではないが。
「まだ桜になりたいか?」
 問いに微笑んだ。彼を見ずに。
 初めてここに連れられて来たときに言った言葉だった。桜になりたいと、ひとこと。ミルガズィアさんはそうかと返すのみで深くを尋ねなかった。だから安心してひたすら桜を眺め続けた。散る花に自分を重ねて。あるいは、自分の中にある感情を。こんなにきれいに散るなら瞬きするほどの間でも慰めになる。そう思っていた。
 ごう、と風が吹き荒れる。花びらは手をかするばかりだ。
「あたしが桜になったら、どうする?」
 答をはぐらかす意味合いは無かった。答が見つからない問いだったから答えられなかった。あのときと同じ気持ちかと訊かれたなら即答していた。ノーだと。違う気持ちで桜になりたいのかと訊かれたら、やはり答えられない。人間の身では桜になれないから。
 手はそのままで彼を見上げる。ミルガズィアさんは腕を下ろし目を伏せた。払っても積もる桜に諦めたようだった。
「そうだな……」
 風がやむ。花びらは途端に勢いを失いひらひら頼りなく落ちてくる。手のひらに落ちる寸前で風に攫われる。
 花吹雪。誰が考えた言葉だか知らないが、まさにその通り。花の吹雪だ。視界が花びらで埋め尽くされる。花の檻に閉じ込められた気分だ。桜ばかり植わっているせいで何処まで行っても花びらの嵐、途切れない。地の果てまで続いていると言われても納得しそうだ。
 ここにはほかに誰もいない。私有地かどうかは訊かなかったから知らない。特に知りたいとは思わなかった。他人がいないのは嬉しい。一人か、もしくはミルガズィアさんと二人で観賞したい。第三者に邪魔されたくない空間だ。喧騒は似合わない。宴会も酔っ払いも相応しくない。静かに舞う花を眺めていたい。時間が許す限り。
「もし、リナが桜になったら。その下で死ぬのも悪くないな」
 幾枚もの花びらが風に流され飛んで行く。髪を結んでこなければ乱されてぼさぼさになっていただろう。花のかんざしは風流だが、ぼさぼさ頭では格好つくものもつかない。下手すればホラーだ。
 再び風がやんだ。手を軽く握り彼へと視線を移す。そうしてから先の問いの答だと気付いた。黙っていた間、じっと考え込んでいたらしい。
 彼はいつのまにか面(おもて)を上げこちらを見ていた。目が合う。
「西行法師? それとも梶井基次郎?」
 からかうように笑って尋ねた。
 桜の花の下で死にたいと詠った西行法師。桜の樹の下には屍体が埋まっていると書いた梶井基次郎。
「どちらでも。桜の花がお前なら、最期までお前を見ていられる。桜の下に埋まるなら私の養分でお前を咲かせられる」
 手が伸ばされる。頭の天辺、髪を結んだあたりと順々に触れられる。正確に言えば、彼の手は頭にも髪にも触れなかった。そうっと注意深くそれだけを取ったのだろう。髪は引っ張られなかった。
 退いて、広げた手の中に限りなく白に近い色の花びらが。気を取られた隙に風に散らされた。どこか惜しい気持ちで他の桜に紛れた花を探す。
「綺麗なリナを見られるのであればどちらでも構わない」
 桜から彼に向き直る。
 誉め言葉と受け取るべきか否か?
 桜だったらきれい、とは桜でないならきれいではないとも解釈できる。捻くれ者と言われそうな解釈だ。
 少々卑怯だが――否定されると確信しているため――捻くれ者だから重ねて尋ねる。
「桜じゃないあたしはきれいじゃないの?」
 左手を伸ばしてぱっぱっと肩に積もる桜を落としてあげた。
 やわらかな笑みが近付く。額と唇に触れすぐ離れる。その拍子に花びらがはらはらと落ちていった。ミルガズィアさんの髪についていた桜だろう。
 声も無く流れる涙にも似ている。ふとそう思った。
「まさか」
 答を聞いて、もう一度、彼の肩に触れる。今度は桜を払うためではない。
 手に体重を乗せて背伸びをする。察して屈んでくれた。キスを返して握っていた右手を開く。握り締めなかったから潰れていない。彼が答えたときに偶然手の中へ落ちてきた花びらだ。風に吹かれて一瞬で目で追えないところまで飛んでいく。高く高く、遥か遠い空へ。それでいいと思う。
 この景色はきれいだけど、花びらはいらない。
 風が落とした幸せなんて、いらない。
 皮膚が離れる。温度が離れる。桜が二人の間に舞う。
 あたしは桜じゃない。願っても、なれない。もうなりたいとも思わない。
 ミルガズィアさんは桜になったあたしの下で死にたいと云う。彼がそう言ったから。
「帰ろ」
 促して手を取る。指を絡めて手を繋ぐ。同じ強さで握り返される。
 人前では滅多に手を繋がない。腕も組まない。首が疲れるから目を合わせる機会も少ない。座っていれば別だが。でも誰もいないなら何も気にしなくていい。必要も無い。ふたりしかいないから。
 桜を捕まえても幸せになれない。桜はあたしを幸せにしてくれない。あたしに幸せを与えるのは、いつだって。







 あとには桜が舞うばかり。




















――終。

稿了 平成十八年五月十六日火曜日
改稿 平成十八年六月四日日曜日


あとがき